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大阪城の歴史

大阪城の歴史

織田信長に抗していた石山本願寺の跡地を手に入れた豊臣秀吉は、全国統一の本拠地をこの地大阪と定め、天正11年(1583)、雄大極まりない大阪城の建築に着手した。完成に約15年を要したその規模は現在の4~5倍という広大なものであり、本丸中央には金色に輝く天守がそびえていた。
しかし、元和元年(1615)、大阪夏の陣で豊臣家滅亡とともに大阪城はすべて焼失してしまった。江戸時代に入って元和6年(1620)、徳川幕府は大阪城の再建にのり出した。10年の歳月と幕府の威信をかけて再建された大阪城は、全域にわたる大規模な盛土と石垣の積み上げ、堀の掘り下げが行われ、天守閣も15m高くなるなど、豊臣秀吉が建築したものとは全く異なったものとなった。
しかし、この天守閣も寛文5年(1665)の落雷で焼失したまま再建されず、その他の建物も、大手門や多聞櫓などの一部を残して明治維新(1886)の動乱で焼失してしまった。
昭和6年(1931)、当時の市長関一(せきはじめ)の提案と市民の募金により天守閣の再建が行われた。太平洋戦争の空襲によりいくつかの建物が焼失し、天守閣も各所で破損したが、戦後の全域の公園化と、昭和33年から41年にかけて行われた櫓・蔵などの修復、そして昭和6年当時の天守閣の姿をよみがえらせるために平成9年に行われた「平成の大改修」により今日みられるような姿となったのである。

櫓 YAGURA

多聞櫓(たもんやぐら)

多聞櫓(たもんやぐら)

多聞とは松永久秀の居城「多聞城」の建物に由来する様式名。大阪城の他の桝形(ますがた)にもあったが、現存するのはこれのみ。
下に鉄板張りの大門(おおもん)を備える渡櫓(わたりやぐら)、南に折れ曲がってのびる続櫓(つづきやぐら)からなる。
合わせた面積は710平方メートル余り、高さは14.7メートルもある。寛永5年(1628)ごろ創建。落雷焼失ののち嘉永元年(1848)再建、昭和44年(1969)解体修理。

千貫櫓(せんがんやぐら)

千貫櫓(せんがんやぐら)

大手門を北から防御する重要な役割を果たした二層の隅櫓(すみやぐら)。
名称は石山本願寺を攻めた信長軍がこの付近にあった櫓を攻めあぐね、「千貫文を出しても奪いたい」といわれたことに由来するという。
元和6年(1620)創建、昭和36年(1961)解体修理。

乾櫓(いぬいやぐら)

乾櫓(いぬいやぐら)

西の丸の西北(戌亥)(いぬい)隅を守る隅櫓。
元和6年(1620)造営の平面L字型、総二階造り(一階と二階の床面積が同じ)の珍しい櫓で、千貫櫓とともに場内最古の建造物。昭和34年(1959)解体修理。

一番櫓(いちばんやぐら)

一番櫓(いちばんやぐら)

南外堀に面して二の丸南面隅櫓7棟のうち一番東に位置しているのでこの名がある。
玉造門を側面から防御する役目をもつ。もとは乾櫓と同様の総二階造りであったらしいが、寛文8年(1668)大改造され現在の姿となった。昭和40年(1965)解体された。

六番櫓(ろくばんやぐら)

六番櫓(ろくばんやぐら)

ニの丸南面の南外堀の内側城壁には要所を固める隅櫓が7棟建ち並んでいたが、 現在では六番櫓とー番櫓だけが残る。六番櫓は寛永5年(1628)造営で、徳川大阪城再築の末期にあたり、様式・手法などに初期の乾・千貫櫓とは違った特徴がみえる。昭和41年(1966)解体修理。

蔵 KURA

焔硝蔵(えんしょうぐら)

焔硝蔵(えんしょうぐら)

焔硝とは黒色火薬のことで、この蔵は火薬庫である。
引火防止のため壁・床・天井とも花崗岩の切り石としっくいで固められた頑丈な建物で、こうした構造の焔硝蔵は現存唯一。
文献資料の調査により、貞享2年(1685)築造であることが判明した。昭和35年(1960)解体修理。

金蔵(かなぐら)

金蔵(かなぐら)

「きんぞう」とも呼ばれ、徳川幕府の金貨・銀貨の保管庫であった。
寛永2年(1625)に二階建でつくられたが、天保8年(1837)に平屋建に改造。
腰壁は美しい生子壁。防火・防湿・盗難防止など厳重な装置が見られる。昭和36年(1961)解体修理。

重要文化財の古建造物

大阪城公園の総面積は106ヘクタールあり、このうち約74ヘクタールが「特別史跡大阪城跡」に指定されている。
それは城地そのもので、その地域内に残存している城郭建築については大阪城の遺跡としてはっきりしている13棟が、別途、国の重要文化財に指定されている(昭和28年)。
これらはすべて江戸時代の創建になるもので、その後修理や再建がくり返されているが、当初の姿をよくとどめており、徳川時代の城郭建築を知るうえで、貴重な資料となっている。
幕末の古写真や古図などからうかがえるかつての壮観にくらべ、残存する建物はわずかしかないが、城郭建築として他に類例の少ない遺構が見られるのが大阪城の特徴で、乾櫓の総二階造りや、建物の壁・天井をすべて石でつくった焔硝蔵、腰に生子(なまこ)壁を張った金蔵などが残っているのは他には例を見ない。
なお、これらの他に城郭建築として青屋門(あおやもん)(昭和44年復興)、極楽橋(ごくらくばし)(同40年復興・同58年修復)、西の丸の北仕切門(しきりもん)(同40年復興)などがあるが、復興に際して資料不足のため復元がかなわず、推定模擬復興といわざるをえない。
そのため天守閣と同じく重要文化財には指定されていない。

大手門(おおてもん)

大手門(おおてもん)

大阪城の正門にあたり、追手門(おおてもん)とも書く。
高麗門(こうらいもん)様式。寛永5年(1628)創建、嘉永元年(1848)修復、昭和42年(1967)解体修理。

桜門(さくらもん)

桜門(さくらもん)

戊辰(ぼしん)の役(1868)で焼失したが、明治20(1887)、軍部の手で徳川時代の様式のままに復元された。昭和44年(1969)解体修理。

金明水井戸屋形(きんめいすいいどやかた)

金明水井戸屋形(きんめいすいいどやかた)

小天守台上にあり、昭和44年(1969)の解体修理のさい、 天守と同じ寛永3年(1626)の創建とわかった。

配置図

配置図
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